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Interview

志水宏吉さん

(教育社会学者・大阪大学教授)

*聞き手:武田緑(一般社団法人コアプラス代表理事・本フォーラムプロジェクトマネージャー)

 

◆志水宏吉さん インタビュー

今回、午後の基調講演でお話いただく教育社会学者で大阪大学人間科学

部教授の志水宏吉さん。先日、研究室にお邪魔し、インタビューをさせ

ていただきました。その一部をご紹介します。

Q.研究者としてのテーマ、

       教育の問題意識について教えていただけますか?

 

  まず、もともとは大学院を志していて、最初は教育の現場でやりたいと思っていました。大学院で学んで、現場の先生方に教育の【地図】を与えるようなことができればと、20歳とか21歳で考えていました。


 なぜそこから研究者になったかというと、教育社会学で院に行き、中学、高校の先生になりたいと考えていたのですが、自分はやはり研究者の方が向いていると単純に感じたことが一つです。もう一つは、大学が東大の教育学部だったこともあり、社会を変えるには”権力”を持った方がいいと思ったんですね。力のあるものが良い志を持って、社会変革するのが近道だと。そして、力を持つには現場の教員よりも大学の研究者になった方が可能性が高いと考えたんです。要は、草の根でやることも大事だけど、埒が明かないと。上のものがバチっと、政治家も上のものになるのですが、政治家にはなりたくなかったので(笑)本を書いて何かできるんじゃないかと思いました。

 

      具体的なテーマはニューカマー(日本に入ってきた外国にルーツの人々)のこどもたちの教育と、学力問題です。前者についてですが、まず1991ー93年の2年間、31歳ころでしたが、文科省の試験に受かって、イギリスで在外研究というのをやれることになりました。家族がいたので家族と一緒に行きました。イギリスのコンプリヘンシブスクールという中等学校を研究しつつ、自分の子どもは小学校とか幼稚園へ通って英語環境の中で暮らしていました。向こうへ行ったときは子どもたちは言語や環境が変わってもハッピーだったんです。そういう意味でイギリスの社会や人には大変お世話になったと思っています。しかし、日本へ帰ってきたら、逆に子どもがそれぞれ環境の違いに苦労したんですね。それを見て、日本に帰ってきて何かできないかと考えたとき、日本へ来る外国人に対して何かできないかということでした。93年に日本に帰ってきて、95年から東京大学で7年間研究して、ちょうどニューカマー外国人が増えていた時期でもあり、共同で本を書いていました。

 

  もう一つのテーマは学力問題についてですが、2000年頃に起こった学力低下論争について、大学のプロジェクトでもやりましょうということになり、私は実証主義なので、データをつくりましょうということになった。その流れで2001年度に学力調査ををやって分析したのがスタートです。また、2003年に阪大に戻ってきたときに同和問題に出会い直して、そこでも学力調査をしたのですが、最初の調査をしたときに、学力低下は学力格差の拡大だという結果がでてきました。「一こぶ(※中間層が最も多い)」が、「二こぶ(※中間層が減り、上位と下位の格差が広がった状態)」になったことで平均点が落ちてきている、だから「二こぶ目」をなんとかしないといけないということで、今につながってきているわけです。学力、学校づくりに10年ほど取り組んでいます。

 

   教育社会学という文脈で自分が何ができるかと考えたときに、今話したようなプロセスがあって、2つに焦点が定まりました。自分は学校教育の中で恩恵をこうむってきました。学校は先生のモラルが低下しているとか教師バッシングが盛んですが、それはけしからんと思って、自分としては逆にサポートをやりたいと思いました。フリースクールやオルタナティブスクールもありますが、公立学校が本体というか本線というか、一番でっかいとこなので、そこをなんとかしないといけないということで、もちろん周辺部も大事に決まっているけど、公立学校にこだわっているということです。

 

Q.公立にこだわる理由をもう少し詳しく教えていただけますか?

 

  僕自身は出身高校は私学なので、私学も大事だとは思っています。それでも公立学校にこだわっているのは、公立学校にしか行けない社会層がいるからです。同和地区の子とか、外国籍の子とか。

  ひっくるめて言うと、マイノリティが公立学校を選ぶと、だから公立学校が大事だと。もちろん、フリースクールでもしんどい層が行ってるのかもしれないけど、フリースクールに行ってる人はミドル層が多いのかなと。それはそれで必要なとこですが、自分の守備範囲ではないなという感じです。フリースクール、市の適応教室、中学校のある一室と主に3段階の不登校の子どもたちの支援する場所がありますが、前の大学である女子学生が書いた卒論で、不登校の子どもについて調査すると、層が3段階A、B、Cみたいになっていました。

     

    つまりそれぞれ必要なんですよね、やっぱり。階層分解している中で、それぞれのスクールバスモデル(志水先生の学校モデル理論)が多様にあれば良いと思います。

 

Q.最後に。

    今後、公教育・学校教育が担っていくべき役割については

    どうお考えですか?

 

 外国人問題をやる中で思ったことは、多文化共生を実現する博士課程人材をつくるべきだということです。それを昨年から実際に始めています。いろんな生育環境の中で自分の常識、自分の価値観を持った人がいる中で、その人たちが出会って何が起こるかという話のときに、当然人によって立場とか価値観ってだいぶ違いますよね。そういう人たちが一緒にやっていかないといけないというときに活躍できる、頭と心と体を持った人材をつくりたいということを今やってるんです。

 

     直接的には関係ないけど、前から思ってるのは、自分の経験からいうと、新自由主義の時代になると、豊かな層は商品とかサービス(学校や教育)を選べる。よかれと思って親の立場から選ぶけれど、子どもの立場からしたら、いいところもあるけど、悪いところもあるんですよね。どういうことかというと、7年間東京大学で教えたときに、偏差値トップクラスの東大生はおしなべて素直で力があっていいけれど、問題としては、異文化リテラシーが低いということです。要するに自分とは違った他者に対する共感が薄い。あるいは、コミュニケーションに入っていかない。そういうタイプが相対的に多かったんです。思い返しても、明らかに小学校から進学塾へ行って、中高一貫の進学校を卒業してきた子が6割とか7割とかいる気がします。僕らが現役の頃と比べると、草の根からあがってきた子は昔より減ってますね。出身校を聞いたら進学校の名前ばかりですから。つまり、教育を選ぶ時代になると、そこで育った子どもたちは同質的な仲間ばかりで、色の決まった経験しかできない。そうすると、社会にでたときに、昔の本にあったように「無邪気で危険なエリート」になってしまう。今の外務省の役人を見ても僕から見たら使えるんかなーという感じです。つまり、多文化環境に開かれてない人が官僚をやってたりするわけです。

 

    その中で、公立学校へ行ってたら、私が中学校時代、荒れの中で同級生普通に殴られたりしていたように、マイノリティに対して「なんやねんあいつら」みたいなことが経験として起こってきます。それでも一緒に何かをやっていこうと先生たちがもっていってくれたんですね。公立学校にはいろんな他者がいて、出会ったから一緒に何かつくっていこうやという雰囲気があります。そういうパワーは逆説的にそこにしかないと、公立の小中にしかない。なぜなら、私学や高校へ行ったら学力によって輪切りにされるので、似通った他者と出会う経験が多くなるからです。日本の場合には特に。

 

   だから、公立学校こそが多文化リテラシーを育むと。逆説的にね。普通はそんな言い方はしないのですが。教育はなぜ大事かというと 、次世代を育てるということでこれ以上大切なものはないと心から思ってます。次世代のという意味でも、多文化リテラシーが大事。OECDのキーコンピテンシーにも含まれているけれど、実際に時代が変わってきて、今の子どもたちは外国の人に日常的に出会うことも珍しくありません。グローバル化が進んできた中で、多文化環境でどううまく人とコミュニケートして何かを一緒につくっていけるかということが大事だと強く思います。

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